仲恭天皇陵 京都タワーを望む陵墓

仲恭天皇陵 参道からの眺め
東山の東福寺の南に仲恭天皇陵があります。京都タワーや京都駅、愛宕山の眺めがよい陵墓です。

仲恭天皇 九条陵天皇陵シリーズ、今回は仲恭天皇陵です。仲恭天皇をご存じの方は、これまた間違いなく歴史好きと、いう天皇です。歴代125代の天皇の中でも最も在位期間が短く、なんと78日間(77日とも)しか天皇ではありませんでした。即位式も行われていなかったため、当時は即位が認められず、死後には諡号・追号もつけられることなく、半帝、あるいは九条廃帝と呼ばれていました。明治の世になって天皇の系統の見直しが行われた際、弘文天皇・淳仁天皇とともにその在位が認められて、仲恭天皇となりました。

仲恭天皇 九条陵仲恭天皇は、順徳天皇の第一皇子です。順徳天皇は、以前にご紹介した土御門天皇の弟で、父の後鳥羽上皇と承久の乱を起こした人物。順徳天皇は、承久の乱を画策するにあたって自由な立場となるため、乱の直前に位を仲恭天皇に譲って上皇となりました。こうして誕生した仲恭天皇は時に4歳。しかし、承久の乱は準備不足も手伝って討幕の目的を果たせずに失敗し、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は配流され、仲恭天皇も廃されてしまうのでした。(便宜上、以下も仲恭天皇と表記します。)

仲恭天皇陵 参道からの眺めその後の仲恭天皇は、太上天皇(略して上皇)の尊号を送られることもなく、なんと元服の儀式も行われないまま、母親の実家である九条殿で時を過ごし、17歳の若さでこの世を去りました。実は、仲恭天皇は時の鎌倉幕府の将軍・九条頼経の従兄弟であったため復位を願う声もありましたが、認められることはありませんでした。

仲恭天皇陵 参道からの眺めさて、仲恭天皇の陵墓(九条陵)は、東福寺の南にある六波羅門を抜けて、真っすぐと東へ登った住宅街に参道の入り口があります。辺りは厳しい坂道に囲まれていますので、やはりこの陵墓に参拝をする方は少ないでしょう。参道は苔も生えていて滑りやすく、私も濡れていた日に訪れて、足を滑らせて怖い思いをしたことがあります。十分にお気を付け下さい。

皇嘉門院陵この天皇陵の魅力は、長い参道から振り返ったときの絶景です。なんと、京都タワーや京都駅、その奥の愛宕山が綺麗に見える場所なのです。それだけ高い場所にいることの証拠でもありますが、苦労しがいのある光景ですので、励みにして行かれるとよいでしょう。天気のよい日は本当に綺麗です。

皇嘉門院陵参道には、崇徳天皇の皇后・藤原聖子(きよこ、せいし)の陵墓もあります。当時の摂関家の当主であった藤原忠通の娘で、僅か9歳で入内しました。実は摂関家当主の実子が后に立つのはほぼ80年ぶりのことで、相当な期待があったことでしょう。しかし、子宝には恵まれず、保元の乱で崇徳天皇が配流されてからは出家をし、皇嘉門院と称して余生を過ごしています。九条兼実とは異母弟で、この場所に陵墓が比定されているのでしょう。

長州藩士の墓地また、仲恭天皇陵の下には、幕末の鳥羽伏見の戦いで亡くなった長州藩士の墓地があります。長州藩は鳥羽伏見の戦いの折り、東福寺を本拠地にしていたため、ほど近いこの場所が埋葬地に選ばれたのでしょう。

東山本町陵墓参考地肝心の仲恭天皇陵は、参道の最も奥にあります。一般的な天皇陵です。が、実はこちらも「擬陵」で、実際に天皇が眠っている場所ではありません。即位式さえも行われず「半帝」と呼ばれていた天皇の情報は多くはなく、詳しい場所は分かっていないのです。しかし、九条邸やその周りの寺院に葬られたと推測されるため、現在の場所に陵墓が造営されました。実際に天皇が眠っている場所ではなくとも、歴史を偲ぶにはよい場所ではないかと思います。

東山本町陵墓参考地なお、交通量の多い本町通に面して、「東山本町陵墓参考地(東山区本町十六丁目)」があり、仲恭天皇が被葬者候補とされています。他のブログなどでは、「本当の陵墓の可能性もある」と書かれていますが、天皇陵の研究書を読むと、この陵墓参考地は古墳で横穴式石室もあり、仲恭天皇の時代とは全く時代が合わないとのこと。陵墓ではありえないとのことです。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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